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ビーチクラフト モデル 18(Beechcraft Model 18)は、アメリカ合衆国のビーチ・エアクラフト社が開発したレシプロ軽双発輸送機。ツイン・ビーチ(Twin Beech)の愛称で親しまれたが、これは非公式なもので、最後まで正式な愛称は与えられなかった。 1930年代に初飛行した機体でありながら、実に30年以上に渡って製造され続けたロングセラー機であり、その後の軽双発機設計に大きな影響を与えた機体として知られている。 == 概要 == ビーチ社はモデル 17 スタッガーウィングの大成功を足がかりに、1935年11月から全く新しい双発輸送機の開発に着手した。これがモデル 18である。会社重役用の高速人員輸送を想定したこの航空機は、旅客機並みの快適さを備え、当時アメリカ国内に多数存在した小さな芝張りの滑走路からも離着陸できるように設計されていた。機体は全金属製の低翼単葉機で、2翅プロペラ、双尾翼式の垂直尾翼、電動引き込み式の降着装置を備えていた。後にオプションでスキーやフロートの装備も可能になった。標準的な機内仕様では、パイロット2名と乗客6名が搭乗できる。 試作機は、1937年1月15日にトランス・ワールド航空のパイロットだったジェームズ・ペイトンの操縦によって初飛行した。副操縦士はビーチ社テストパイロットのH・C・ランキンが、飛行試験技師はカーチス・ライト社のロバート・ジョンソンが担当した。モデル 17と同様、モデル 18も革新的な設計で、最大速度325km/h、高度1,830mでの巡航速度は309km/hという高性能を発揮し、しかも着陸進入速度は89km/hと極めて低かった。同年3月4日に形式証明が公布され販売が開始されると空前の勢いで受注を獲得し、軽双発機市場に大変革をもたらした。 1940年にアメリカ陸軍航空隊が発注すると軍用機としても製造されるようになり、アメリカが第二次世界大戦に参戦すると民間型の製造を中止し軍用型の製造に専念することとなった。軍用型の代表的なものには、軽輸送機C-45 エクスペディター(Expeditor)、航法練習機AT-7 ナビゲーター(Navigator)、射撃手/爆撃手訓練機AT-11 カンザン(Kansan)がある。これら軍用型だけでも5,000機以上が製造され、ある時期には製造が早く進み過ぎてゴムタイヤの納入が追いつかなくなり、急遽木製車輪を装備して保管区域へ移動させなければならないこともあったという。 大戦が終結すると民間型の製造が再開され、当時ビジネス専用の双発機がまだほとんど市場に出ていなかったこともあって多くの企業にビジネス機として採用された。また、軍用型も余剰機が世界各国の軍に供給された。この時期になるとさすがに設計の古さは否めなくなっていたが、操縦性・安定性共に優れ、かつ頑丈で実用性が高い機体であったため人気は衰えず、最終的に1969年まで生産が続けられた。ちなみに、製造最後の機体の納入先は航空大学校で、旅客機パイロットの練習機として使用された。 総生産数は8,000機以上で、現在でもまだかなりの機数が小規模な貨物輸送業者などで使用されており、ターボプロップエンジンへの換装など独自の改造が施された機体もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビーチクラフト モデル 18」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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